この日は『ふれる社会学』トークイベントふれしゃかフェスの第4回目。編者のケイン樹里安先生、上原健太郎先生、著者の菊池哲彦先生、中村香住先生を迎え、先生方の研究との出会いや社会学の面白さ、役割などについて語りました。また、今回のイベントでは、菊池先生は1969年生まれ、他の登壇者の先生方は1980年代、1990年代生まれ、ふれてきた文化により社会の読み解き方はどのように異なるのでしょうか? ご登壇者による化学反応をお楽しみください!
また、実際のフェス中はみなさん「ですます調」で話されておられましたが、「レポート」の性質上、細かな言い回しはカットしております。それでは、どうぞお読みくださいませ!!
~『ふれる社会学』にふれる~
◆ケイン先生
『『ふれる社会学』は身近な話題、身近すぎてなかなか気づかないことから社会学のものの見方を提示できるように心がけて企画した。また、現代的なテーマを多数、そして多角的に扱うようにしている。たとえば、今は観光や町おこしが学問的にも人気のテーマだが、そうした章だからこそ、長年、観光地でフィールドワークを続けてきた、八木先生の「観光にふれる」の章を読んでほしい。どうしても経済的な損得勘定に引っ張られがちな議論を相対化するような視点が得られると思う。また、実際に講義をする先生たちにも、ぜひ読んでほしい。たとえば、大学にひとつくらいは必ずよさこいサークルがある。「よさこいにふれる」を読んでいただくと、よさこいにのめりこむ学生さんたちのことがわかるかもしれない。
また、身体、差別の話も盛り込んである。「差別はいけない」ことは習ってはいるが、具体的な差別の話というのはなかなかしづらい状況がある。ふれるきっかけになれば、と思い、人種、ジェンダー、セクシュアリティ、障害、差別感情といったテーマを、各章をまたぐかたちで盛り込んだ。さらに目には見えない「魂」や、最後には社会学の古典にふれる章も設けた。社会学は非常に広範な領域を扱うが、『ふれる社会学』はその間口を広げる窓でありたいと思う。社会学部の学生、あるいは大学生だけではなく、さまざまな人々とも、ともに考える機会をもっていきたい。
~『ふれる社会学』の担当章にふれる~
◆中村先生
メイドカフェを研究しているのだが、メイドカフェに初めて行った時に、戸惑いがあった。そして2回目には発見があった。メイドは「性の商品化」を行っているわけだが、これは強制されたものなのか? 強制と自由意志かの二項対立が90年代までの議論にはあった。だが、メイドカフェに行っていると、完全なる強制であるとは考えづらい。メイド自身にかわいさを使って自己承認を得たいという面があり、そのかわいさに対価が支払われている。だが、メイドが完全に自由意思であるかといえば微妙なところもある。どのような戦略でやっているのか、ということから研究し始めた。
◆ケイン先生
中村さんの章のコラム(「研究のコトハジメ」)で書かれている、メイドカフェ研究のジェンダーの話を、講義をしている看護学校の学生さんたちが興味津々で聞いている。看護師としての立ち振る舞いの在り方と重なるところがあるようだ。
◆菊池先生
飯テロにふれる」の章を執筆したが、Twitterでケイン先生と話していたのがきっかけとなった。嫌中の人でもラーメンや餃子は食べるだろう、食事に対しては寛容になるよね、と話していた。みんな遊びのように飯テロを行っているが、実は排外主義の対抗になるのでは、と思い至った。セレンディピティは大切。
『ふれる社会学』の「ふれる」とは、触覚。視覚に対し理性的になれる感覚とロラン・バルトが『現代社会の神話』のなかでいっている事を踏まえるとこの本書のタイトルは示唆的ではないか。本書はまた様々な具体的テーマにふれて、最後に学説史というのは良い構成だったのではないかと思う。
◆上原先生
「就活にふれる」「労働にふれる」の章を執筆した。研究の発端としては、大学時代、就活に違和感を持った。急に3年生になると、皆同じようにリクルートスーツを着て黒い色に染まっていき、そして新卒で就職していく。また、就職したら就職したで、ブラックな職場があり、様々な事情で抜け出せなくなったりしている。労働状況のみならず、承認欲求ややりがい等がブラックな状況から抜け出せない一因となっており、問題が複雑化している。
~「ふれる」ことにふれる~
◆ケイン先生
「『ふれる社会学』の各章は、カテゴリーマップ(*目次の次についています)を見てもわかるように他章につながっている。もちろんカテゴリーマップ以外のくくりも可能だと思う。読者によって楽しみ方も違うと思う。
◆菊池先生
「ふれることが視覚を乗り越える。写真の場合で言えば、プリントの向こうに感じるものにふれる。ふれないと深堀りできず本質に届くことができない。
◆ケイン先生
本を出版して終わりではなく、アップデートしていきつつ、SNSなどでつぶやいてもいきたい。こういった積み重ねにより、届かない、というエラーを防いでいきたい。ここから何か始まらないかな、と思う。
~社会学研究のはじまりにふれる~
◆菊池先生
20年前、自分が学生の頃の社会学の状況はどうだったか。例えば学生時代、似田貝先生の社会学の授業で、1989年天安門事件が起こり、それ以降、三回くらいかけて予定になかった中国の社会運動の話が続いたことが印象に残っている。またその頃のテキストでは、有斐閣の『社会学の基礎知識』(塩原勉・松原治郎・大橋幸編集代表)などがあり、難しい内容だった。そして、修士課程の頃になると、宮台真司、大澤真幸等が活躍し始め、別冊宝島の『社会学入門』が、AERA Mookで『社会学がわかる』など、これまでの社会学とは違った入門書が出てきた。大学院重点化が始まった時代であったので、今とは違う状況だった。
そして、現在は当事者研究が増えてきている。当事者研究には有意義性と「危うさ」を感じている。例えばジェンダーの問題等の時、「あなたは男だからわからない」と言われたことがある。当事者でない人が問題を考えるのを遠ざけてしまう、ような「危うさ」を生まないようにしなくてはならない。『ふれる社会学』では誰もが当事者になりうる、という視点を提示しているところが重要だと考えている。
◆中村先生
当事者とはだれか、という問題がある。例えば、私はレズビアンの当事者であるが、セクシュアルマイノリティの論文を読んでも共感できないものもある。
日本では、2000年代以降特に、アクティビズムの文脈を中心に、『LGBT』という言い方やアイデンティティ・ポリティクスの考え方が支持を得てきたように思う。しかし、セクシュアリティは変わる可能性を持っている。そもそもセクシュアリティの自認や決めるということをしたい人・それが必要な人もいれば、セクシュアリティを決めたくない、決められない、決める必要を感じないという人もまたいる。 当事者研究では当事者としてアイデンティティを決めてその立場から論じるいう流れになりがちであり、それへの疑問からセクシュアルマイノリティのコミュニティから離れ、女性アイドルオタクのコミュニティへコミットしていった。そちらのコミュニティは異性愛規範が強くなく、かつジェンダー/セクシュアル・アイデンティティを決めずともよい、明かさずともよい雰囲気があり、居心地が良く、自分に近いと思った。女性アイドルオタクについては、社会学ではまだあまり論じられていなかったが、このような経緯があり卒業論文では女性アイドルオタクについて扱った。
◆ケイン先生
「マジョリティ」というのは、ある問題をスルーできる人たちのことでもある。その問題をよく知っているようで実はざっくりとしか知らないからこそスルーできる。
一方で、「マイノリティ」は24時間ずっとマイノリティとして生活しているとは限らない。また、マイノリティ同士はそれぞれ違う体験をしている。ある「当事者」の特定のイメージが強くなりすぎると、そうでない当事者たちを排除することになりかねない。たとえば、「ハーフ」と言われて浮かぶのがいわゆる欧米系のハーフになっており、他の国々とのハーフはハーフ当事者として認識されにくい(例えば中国と日本のハーフ)。共通点、差異、両方を見なくてはならない。
「差別感情にふれる」の栢木先生の指摘は高みから社会を分析している章ではない。差別感情は、「差別はいけない」という人の中にもある。誰の中にもあるかもしれないものにふれている。そういう自分の中の差別感情や差別発言を顧みるための、人文社会学の知はセイフティーネットだといえるのではないか。
◆菊池先生
「社会学に救われる、という経験は?
◆上原先生
沖縄の経済的に厳しい地域で育った。地元の友人たちはほとんど高卒。それに対し、大学の友人は新卒で就活をしている。このギャップに違和感をもった。『新版 ライフストーリーを学ぶ人のために』(谷富夫編著)の中の「文化住宅街の青春」(西田芳正)という論文との出会いが大きかった。簡単にいうと、非サラリーマンの大人たちに囲まれて育った子どもたちが、その地域の大人たちと同じような世界に「自然」に入っていくといった、社会的地位の再生産の話で、地元の友人の状況とぴったりきて、納得した。その論文を読むことで、地域の人たちの理屈や事情を知ることでき、「いろんな人がいろんな事情の中で暮していること」を社会学に教えてもらった。
◆中村先生
高校生の時『発情装置』(上野千鶴子著)を読み、社会学やジェンダー論をやると、こういう視点を獲得できるのか、と思った。
◆ケイン先生
学部生の時、山本雄二先生がブルマー(『ブルマーの謎』)や尾崎豊の話をとても楽しそうにする。こういうことをずっと考えている職業があるんだ、と思った。また、映像表現分析の授業で『タイタニック』の分析を聞き、とても新鮮だった。社会学に救われただけでなく、こういうことを考えていていいんだ、ということに気づかされた。些細なことの構造を細かく考えることの楽しさにふれた。
◆上原先生
学部時代、山本雄二先生が、夏休みの宿題としてデュルケームの『自殺論』を読んでくるように言われた。自分は体育会に所属し、夏休みは部活漬けの毎日だった。本を読む気はさらさらなく、実際に1ページも読まなかった。そして夏休み明けに山本先生から読んできたか質問された時、読んでこなかったことを伝えた。すると、山本先生は「こんなに面白いものを読む機会を逃したねぇ」と言われた。中学や高校の先生なら、「なぜ課題をしてこなかったんだ」という話から入ると思う。けど、山本先生は違った。その時に「勉強するってこういうことなんだ...読めばよかった...」とすごく後悔したのを覚えている。
◆菊池先生
世の中に役に立つことをしなくていいんだ、というのが社会学の面白さだと思った。『都市のドラマトゥルギー』(吉見俊哉著)、『身体の比較社会学 Ⅰ・Ⅱ』(大澤真幸著)などを読んで新鮮だった。だが、これがわかって何になる?という話でもある。このように、楽しいという思いだけで始めたが、今は震災の話や社会問題についても言及したりしている。
人文系、文芸は昔から好きだった。若桑みどり、蓮見重彦、松浦寿輝等の作品を読んでいた。だからReadin’ Writin’さんの本の並びの面白さを感じる。
◆ケイン先生
自分は学生の頃は『思想地図』などの批評誌を読んで、大学院にはいてからは、社会学と共に、セルトーやスチュアート・ホール、あとはクレーリーなども熱心に読んでいた。Readin’ Writin’さんは絵本コーナーが素敵で、さっき1冊買ったのだが、児童文学や絵本も社会学的なものの見方に通じるものが大いにあるともう。たとえば、ジョナサン・クレーリーの『24/7』を読んでいるときには、ミヒャエル・エンデの書いた『モモ』を思い出した。考えてみれば、言わずと知れた『ぐりとぐら』も、ある意味飯テロの話でもある。
もう少し、社会学の話をすると、ゴフマンの『スティグマの社会学』を修士課程の時に読んで、衝撃を受けた。「ハーフ」のことについて論文を書いていたのだが、先行研究がほとんどなかった。そのときに、ゴフマンやセルトーの著作を読み、それぞれの本に「ハーフ」とは書かかれてはいなかったが、紐づけることができ、ようやく論文が書けるようになった。
~映画にふれる~
執筆者紹介に好きな映画が書いてあるので、映画についてもふれて頂きました。
◆菊池先生
T好きな映画として一つ挙げるようにオーダーがあったが、一つというのは難しかった。そこで考えたのが、『わたしのような美しい娘』。トークイベントのネタとして仕込む意味もあった。この映画は犯罪者の女性に世間知らずの社会学者がインタビューをすることから始まる。ところが社会学者はその女性に手玉にとられ、自分が犯罪者に仕立てられてしまうコメディ。質的調査をしている人にぜひ見てほしい映画。
ドキュメンタリー映画もよく観る。『ニューヨーク市立図書館』という映画は、この図書館がどういう理念のもと、スペース、資料を含めどういうものか、どういう活動をしているかが描かれている。映画は社会学をするにあたり大切なメディアだと思う。
◆中村先生
『アナと雪の女王2』は見てほしい。観客の要望を聞いて意見を織り込みつつ、今までのディズニーの反省を踏まえて2がつくられている。1ではエルサとアナのシスターフッドが描かれているのが画期的。2ではシスターフッドの難しさが描かれていた。
~質疑応答~
Q:当事者研究は最初精神障害のケアから出てきた言葉だったと思う。べてるの家など、当事者同士で語り合う、ということがあった。当事者で語りあえる場というのは他にもあるのか。
A:▼ケイン先生
アメリカ人とのハーフである自分が中国人のハーフの方にインタビューをしたのだが、似ているところと差異がある。当事者研究をしていると、本人が語るべき言葉を奪ってしまっているのではないか、と考えてしまうことがある。だが、語らないと、ちゃんと語っていない、と怒られてしまうジレンマがある。
『質的社会調査の方法』(岸政彦・石岡丈昇・丸山里美著)の中に、理解することはできないが、共有できるものもあるのでは、ということが書いてある。マイノリティ間でもくい違うところがある。でもそこに鋭敏でいられるかどうかが大切なのだと思う。
そして、Readin’ Writin’ 店主の落合さんによる本棚紹介! Readin' Writin'にふれる
Q:Readin' Writin'の特徴は?
A:本は買い取り。自分が気になる本、興味ある本を選書しているが、ほとんど読んでいない。店は積読本の集積です。Readin’ Writin’にある本は大きな書店にかつてはあったけれど一定期間売れなかったため返品された本が7~8割。返品された本が読むに値しない本かと言うと、そんなことはない。時代を超えて読み継がれる本がたくさんある。
Q なぜ田原町で書店をしようと思ったのか?
A:最初はこの物件ではなかった。偶然入った隣りの喫茶店で店主の女性から紹介をされた。材木の倉庫だった物件で築約60年。ロフト(中二階)では職人さんが寝泊まりをしていたらしい。セレンディピティという言葉が出てきたが、まさにそういう出会いだった。
今は4000冊強の本を置いている。スタートは300冊。棚も増やし、どんどん広がっていった。ロフトの畳スペースは短歌教室や一箱古本市などで使用している。
ジャンルの表示をしたり、ポップをつけたりはしない。行間や余白が想像をかき立てる、お客さんが棚を勝手に解釈するのが面白い。
仕入れに関しては、芥川賞などの受賞作品は仕入れない。仕入れるポイントはテーマ、著者、版元、装幀。タイトルで外れることがあっても装幀で外すことはない。
以上駆け足ですが、第4回フェスレポートでした!
本日のキーワードは「セレンディピティ」、「それぞれの研究コトハジメ」「当事者研究」でした。
ふれしゃかフェス第1回(代官山蔦屋書店)のレポートはこちら→ふれしゃかフェス第1回
ふれしゃかフェス第2回(ジュンク堂池袋店)のレポートはこちら→ふれしゃかフェス第2回
ふれしゃかフェス第3回(ジュンク堂難波店)のレポートはこちら→ふれしゃかフェス第3回
ふれしゃかフェス第5回(汽水空港)のレポートはこちら→ふれしゃかフェス第5回
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